「どうでもいい。」という十代の結論(未完)。
- retromup
- 2020年12月21日
- 読了時間: 2分
「どうでもいい。」
世の中の全ての事は、この感情でもない、気持ちでもない、何物でもない、「何か」、という結論によって、事足りるという事に気づいたらしい、とある十代は、自分に対して諦念を持っているようだ。
「みんな同じだよ。どうでもいいんだよ。みんなも。」
日々のニュースに右往左往する人も居れば、これらの十代の少年少女のように「どうでもいい。」と、キッパリ?と諦念を持つことが出来る。ある意味、大人よりも大人である?
言葉のギミックとかノウハウとか仕事とか学校とか、何でもかんでも詰め込んで、「どうでもいい。」にして、諦念にして、この凝り固まっている凝縮凝固な現代社会を何タラ感タラとか、それすらも、もう、「どうでもいい。」のかもしれない。
しかし、この「どうでもいい。」という結論は、諦念として扱われるが、基本概念としては、「お母さん、ただいま。」だったり、「今日のご飯、シチュー?ビーフストロガノフが良かった~。」とか「iPhoneの新しいやつ、ほしいんだけど、、ダメ?」とか。本当に「どうでもいい。」なんてことは、存在しないのかもしれない。いや、存在しない。間違いなく。
フィクションとノンフィクションが交錯する、この世の中の現状なんてものは、現状ではなく、全て、「どうでもいい。」の一言で事足りるのだろう。不思議な気持ちになりました。
ふと、
思ったのが、十代は「一言」を求めてるな、と。
「一言」で良いんです。「一言」で。そう。
「どうでもいい。」とか、
「どうでもよくない。」とか、
「なんかある?」とか。
「今日のご飯、やっぱり、麻婆豆腐ね。」とか、ね。
「一言」で、事足りる。
「そんなわけない。」のかもしれない。
そう、「どうでもいい。」なんて、ことはないんだ。
「どうでもよくない、、」という結論で。
引き続き、一言じゃない!幾重にも折り重なったミルフィーユ状の人生の続編を、どうぞ。
(未完)













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